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Bon Vivant 児玉圭介シェフ

ベーカリーパートナー21号 シェフインタビュー

 


 

こだま けいすけ

1973年9月10日パン屋の長男として生を受け、パンとケーキに囲まれた生活を送る。21歳の時に関西のパン屋さんめぐりをした中で「パン工房青い麦」のバゲットに衝撃を受け、福盛幸一氏に師事。26歳で実家のパン屋さんに戻り30歳にここ横浜市青葉区に「ボン・ヴィボン」を開業。36歳の時にはパンの世界大会「モンディアル・デュ・パン」第3回大会の日本国内予選において、クロワッサン部門・バゲット部門で第1位。総合第4位を獲得。翌年にはフランスのパリで行われた第3回「モンディアル・デュ・パン」のPR 大会に日本代表のデモンストレーターとして参加。現在「ボン・ヴィボン」青葉台店と新百合ヶ丘店の2店舗の経営の傍ら、パンの普及の為、国内はもちろん海外でもプロを対象とした講師活動を行い、活躍の場を広げている。

 

パンとケーキと職人に囲まれた環境が日常


 祖父のパン屋さんで両親が共働きしていましたから、小さい頃から手を伸ばせばパンに当たるほどパンが身近にありました。幼稚園の帰りのバスはお店で降ろされて、お店の牛乳を片手に遊びに出かけていましたし、おやつはお店のパンでした。砂場遊びや段ボールで何かをつくったり、プロレスで遊ぶのが好きなわんぱく小僧で、その時はパン屋さんになろうとはこれっぽっちも思っていませんでしたね。

 祖父のパン屋さんは謝恩会などの行事に合わせて大量の注文を受けるパン屋さんで、2万個の注文が入ることもありました。注文の多い日は幼いながらに私も手伝いに駆り出されたんです。夜な夜な作業するそんな日は、ちょっと特別な感じがして楽しかったことを今でも覚えています。幼い頃からこういったお手伝いをしていたので、物心のついたころには「丸め」やケーキの「ナッペ」を体得していました。

 本格的に、パンの仕事に足を踏み入れ出したのは21歳の時でした。祖父のお店で働いていた従兄のおじさんが倒れて、離脱する半年間の穴を埋めるべく私に白羽の矢が立ったんです。従兄のおじさんも完治したら戻ってくることが決まっていたので、「丸め」の補助や「ナッペ」ができる身内の私を働かせることは都合が良かったんだと思います。それまでは数時間の手伝い経験はありましたが、このとき初めて最初から最後まで働きました。主にケーキ部門を担当していましたが、ちょっとずつできるようになって楽しくなり、少しずつチャレンジするようになりました。作ったケーキを持って知り合いの女の子に会いに行けばテッパンで喜んでくれましたし、何より自分の手で作り上げたモノで人を喜ばせる事がこんなに楽しいものなのかと実感できたことがチャレンジの原動力になったんだと思います。従兄のおじさんの復帰と同時に私の役目は終了したのですが、パンとケーキは人を喜ばせることができて楽しいと感じたので、パン屋さんになりたいと考えて祖父のパン屋さんのパン部門で働かせてもらいました。今思えば身内であることをいいことに生意気で職人ぶっていましたし、怒られないもんだからやりたい放題って感じで、我ながら酷い奴でしたね(笑)。
 


パン屋を目指し勉強がしたいと相談すると「自衛隊に行け」という……
その真意とは!?


 当時、従兄の倉田(現・デイジイ・オーナーシェフ)が埼玉の川口で美味しいパンを焼いてバカ売れしていたので、祖父の店を飛び出てパンを勉強したくなり「博和兄ちゃんパンを教えて!」と出向いたことがあったんです。しかしこの時に「パンは配合じゃねぇんだよ!」と倉田に一蹴されました。その時の私はパンもケーキと同じく配合を知れば美味しく焼き上がると思いこんでいましたから、この返答は衝撃でした。そして倉田のもとで勉強したいと言うと「自衛隊にいってこい!そしたら俺が仕上げてやるよ!」と。当時は何をチンプンカンプンなことを言っているのかと思いましたが、自分が経営者の立場になってこの言葉の真意を理解することができました。【センスなんかより根性が大事ということ。根性はセンスを凌駕するということ】を。

 

このパンに出会わなければ今の私は存在しない


 自衛隊には行かなかったのですが、勉強したかったので「東京コトブキインダストリー」の
兵藤社長に関西のパン屋さんに連れて行っていただきました。この関西パン屋さん巡りで衝撃を受けたパンがありました。「パン工房青い麦」のバゲットです。これが忘れられなくて、次の日も次の日も食べに行ったら、変な奴がいると福盛さんに見つかって、いきさつを話すと「そんならワシんとこに来い!」とおっしゃってくださったので親に相談もしないで必要な物だけを持って、1週間後には「青い麦」で働いていました。関東からの移住に時間がかかって、このチャンスが無くなっては困ると思わせるくらい感動したバゲットだったんです。







 

試練の始まり。驚きの製造量をこなした修業時代


 最初に福盛さんは「わしんところの一番若い19歳には27万円支給している」と夢を見させておいて、実際にいただいた初任給はその半分にも満たず……(泣)。入社時に「給与は良さそ
うだし美味しいパンも技術も覚えられるし、なんて素晴らしい職場なんだろう!」と心躍らせた未来への期待は見事に打ち砕かれました。甘かった……そうです、ここから試練が始まります(笑)。祖父のところでは6時~15時までの勤務だったのに対して、それ以上の長時間労働が日常で慣れるまでは体力的に辛く、配属された「青い麦八尾店」では1日50万円の売上を5人で回していたのでゆっくり丁寧に教えていただく暇もなく、スピードについていくことで精一杯でした。一日中天板を拭いていたなんて日もありましたね。私には仕事を覚えることに加え関西弁という言葉の壁もありました。「児玉君、えらいやろ~」って言われて「?」私は別に偉くないですけど、何か横柄な態度でもしました?って頭の中が処理したんです。「えらい」=「しんどい(疲れた)」ってことで先輩は私を気遣ってくださっていたんです。他にも「これほかしておいて」と言われてゴミを蒸し器に入れて異臭事件を起こしたことがあります。
 また、私の入社時に福盛さんが「21歳の技術者が入ってくるから覚悟しておけよ!気合を入れないと抜かれるぞ!」と在籍している社員に発破をかけたそうです。そこに祖父のパン屋さんしか知らない私が入社したものですから、そのギャップをネタにこっぴどく怒られたものです。窯の仕事を1年やり続けてやっと慣れた頃に、「青い麦桃谷店」で働いていた現・パリゴの安倍さんと一緒に「麦の花」で働くことになりました。実は前述の19歳で27万円もらっていた先輩とは安倍さんのことで、その技術は当時からずば抜けたものがありました。この人についていけば大丈夫だと思わせてくれるほどで私の第二の師匠です。「麦の花」では第二の試練が始まりました。サンドイッチの製造や仕上げ、品出しはパートさんが担当してくれましたが、製造2名で平日に50万円のパンを焼き上げ、土日などの繁忙日では80万円分を製造していたのでご想像の通りのスピードで仕事をしていました。

 

逃げる奴に成功無し目指すは超一流!


 当時はまだ古風な職人気質が色濃い時代でしたが、ここ「麦の花」ではそんな職人が逃げ出すことが多くありました。ただ私はどんなに叱られて悔しい思いをしても、体力的に辛くても逃げ出しはしませんでした。理由は「児玉の焼いたパンが美味しいと言われたい。凄く美味しいパンで食べた人を喜ばせて幸せにする職人になる!」と強く決心していたからです。また安倍さんのもとで頑張れば家族みんなが豊かになるし自分の将来も明るくなると確信していました。当時は凄いパンをつくることができれば売上げは必ず後から付いてくる、裏切らないと本気で思っていました。
 逃げ出すことはありませんでしたが、約4年お世話になった時に、福盛さんに辞めたいと切り出したことがあります。そこで福盛さんに「一流でなく超一流になれ」と言われたそのシーンがとても印象的で目に焼き付いています。それから1年、超一流をめざして取り組み、辞める時には・・・・・・

続きはベーカリーパートナー21号>>


 

 

SHOP DATA

Bon Vivant(ボン ヴィボン)青葉台店

●所在地:神奈川県横浜市青葉区青葉台1-32-2
●立地:東急田園都市線「青葉台駅」から徒歩約13分
●開業年:2004年7月
●定休日:月曜
●従業員:6人(販売3人・工場3人)
●営業面積:23坪(売場8坪・工場15坪)
●日商:平日25万円/ 土日祝35万円
●客単価:平日1,000円/ 土日祝1,200円
●オーブン台数:1台( 4枚4段) ●ミキサー台数:2台
●パンの種類:平日70種類/ 土日祝90種類(生地16種類)


 
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